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そして現在…日本サッカー界が停滞・低迷しているといわれている理由とは?

公開日: : 未分類

最後に、日本サッカー界が停滞していることについてどうしなければいけないのか、また、低迷していると言われていることに対しての自論をぶつけてみました。賛否両論あると思いますが、一理あると思ってもらえれば幸いです。

 

ヤタガラス

 

■Jリーグ元年と比べ現在の日本サッカー界はどうなっているか

Jリーグ元年は今と比べ外国人プレーヤーの獲得に力を入れ、日本人選手が彼らからたくさんのものを吸収しようと必死でした。

しかし日本人選手のレベルが上がってきたことにより、外国人プレーヤーが個人で打開してバンバン点を取ってしまうという時代に陰りが見えてきたのでしょう。外国人プレーヤーの獲得にお金をかけるよりも日本人育成に力を入れたほうがいいと言うチームのコンセプトが見え隠れしてきました。

確かに日本人を育てる上で外国人プレーヤーにばかり頼っていてはいけません。だからと言っていいものを吸収しようという精神がなくなってしまっては成長が見込めないのです。

■日本サッカー界が低迷していると思われる理由

クラブのお金の出し渋りが日本サッカー界が低迷していると言われる原因の一つでは無いかと思います。

それに加えJリーグ元年と現在とで決定的に違うことがあります。

それはチーム数です。

はっきり言って今のチーム数は多すぎるのです。

天皇杯で大学生に負けるようなチームも出てきてしまうし、チームが増えることによってプロの重みが減ってしまうのです。

日本はまだまだサッカーが盛んではありません。それなのにトップリーグは100年以上の歴史があるヨーロッパとチーム数は変わりません。12チームくらいに絞って本当に優れた者達の戦いの場にしないとファンはついてこないでしょう。

また上記とは矛盾してしまうかもしれませんが、私が思うに、ファンが思っているより日本サッカー界が低迷しているとは思わないのです。

日本のサッカーファンは大きく分けて2種類に分かれると思います。Jリーグ開幕前からのファンと開幕後からのファンです。

開幕後からのファンでもドーハの悲劇という言葉を知っていると思いますが、1994年のアメリカ大会の参加数は知らない人が多いと思います。

24チームです。

それが日本がW杯初出場を決めた1998年には32チームに激増したのです。

はっきり言って日本がW杯に出場できたのは、日本が強くなったこと以上に、このこと(出場チーム数の増加)が作用したのです。

なのではっきり言って日本はめちゃくちゃ強くなったわけでは無いし、低迷したわけでも無いのです。

■今後日本が世界と戦うためにしなければいけないこと

今後日本が世界と戦うためには、選手だけでなく、ファンも成長していかなければいけないと思っています。

何も罵声を浴びさせろというわけではありません。質の高い試合を見に足を運ばせるのです。

その収益がクラブに入り選手に渡る。努力を重ね、力をつける。こういった流れができるのです。

そのためにJリーグはファンを満足させられる好ゲームを提供する必要があるでしょう。

サンフレッチェ広島のJリーグ元年(1993年)~異質な土地柄が生んだ異質なチーム

公開日: : 最終更新日:2017/03/08 未分類

ここでは、サンフレッチェ広島のJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。広島という独特の地域性を表したサンフレッチェ広島がどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

サンフレッチェ

■どことなく異彩を放っていた1993年のサンフレッチェ広島

サンフレッチェ広島を語る前に、ちょっと広島の話をしたいと思います。私が思うに広島と言う地域性が異質なような気がしています。

それは恐らく戦国時代に話は遡ります。私はそこまで戦国時代の知識に明るいわけでは無いのですが、広島は三本の矢で知られる毛利元就が統治していた地です。彼は他の武将と違って攻めに出るのではなくあくまで今ある地を大事にすると言うスタンスを取っていました。

何となくその気質があると思うのが広島カープのチーム戦略です。彼らは選手を育てて他チームに対抗すると言う戦術を取っています。

私の目には1993年のサンフレッチェ広島も似たような匂いを感じていました。

確かに外国人はいましたが、核となっていたのは日本代表GKの前川やFWの高木、MFの風間と言った日本人選手達でした。

地域密着を提唱するJリーグにとってサンフレッチェ広島の地域柄を出した戦術と捉えたのは私だけでしょうか。とにかくJリーグ元年最も独自な存在だったのはサンフレッチェ広島だったと思います。

■最初は苦しかったチーム事情

独自性を出した1993年のサンフレッチェ広島ですが、チーム事情はかなり厳しいものでした。

当初コーチとなったヤン・ヨンソンを選手起用したり、現役引退した松田、望月を現役復帰させたりしその場しのぎをしていると捉えられました。

しかし戦術が徐々に浸透するとサントリーシリーズでは6位、ニコスシリーズでは5位と大いに検討しました。

ちなみに翌年のサントリーシリーズでは優勝にしています(しかもガラス製の優勝トロフィーを割ってしまうというおまけつき)。

うまく選手を育て強豪に仕立て上げるチーム戦略としては日本一だと思いました。

■開幕戦はいきなり見せ場が

さてこのチーム事情がよろしくなかったサンフレッチェ広島ですがJリーグ元年(1993年)の開幕戦でいきなり見せ場を作ります。

この年の開幕戦は5月15日に読売ヴェルディ対横浜マリノスの対戦が行われ先制点はヴェルディのマイヤーが取りました。

そしてマリノスが2点取って逆転したわけですが、何とこの3得点全員外国人選手が取ったんです。

つまり日本人初得点という枠はまだ残されていた訳です。

そして5月16日にJリーグ日本人初得点を記録したのはサンフレッチェ広島の風間八宏選手です。得点時間は何と前半1分。相手は1990年W杯優勝経験したリトバルスキー要するジェフ市原でした。

この記録はあまり知られていませんがやはり記念すべき得点だったと思います。

さらにこの試合は2ー1でサンフレッチェ広島が勝利し、見事初陣を飾りました。

ガンバ大阪のJリーグ元年(1993年)~初年度は苦戦の嵐だった

公開日: : 最終更新日:2017/03/08 未分類

ここでは、ガンバ大阪のJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。ガンバ大阪の顔は釜本監督だったのではないか。そんな中でニュースター松波の台頭もありました。そんなガンバ大阪がどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

ガンバ

■1993年のガンバ大阪

読売ヴェルディと横浜マリノスの開幕戦で1993年のJリーグが始まったわけですが、そのカードを見るようにやはり中心は関東でした。

10チーム中関東のチームのチームが6チームでその他は清水、名古屋、大阪、広島しかありませんでした。

さらに上位チームはほとんど関東のチームで、サントリーシリーズでは上位5チームのうち4チームが関東勢。西日本のチームは比較的目立ちませんでした。

ガンバ大阪も例外ではなく、サントリーシリーズ8位、ニコスシリーズ6位と振るいませんでした。

有名外国人はおらず、GKの本並、エースの永島(現在フジテレビのアナウンサーの永島さんです)らがチームを牽引していました。

しかし彼ら以上に一番目立っていたのが釜本監督。監督の中では選手時代一番実績を残していたため、それに対してはどのチームよりも注目を浴びました。

■ガンバ大阪の不幸

1993年はJリーグ元年となったわけですが、その年の1月にエジバウド選手がシーズンを待たずして交通事故で他界してしまいました。

他のチーム同様ガンバ大阪にも外国人に頼らざるえない面はもちろんあり、エジバウドの死は精神的にもピッチ上でも大きな痛手となったことは間違いありません。

開幕こそ1ー0で浦和に勝利しましたが、その他はあまりパッとしなかったのもこの事故が影響するのは間違い無いでしょう(1993年のサントリーシリーズの8位のガンバ大阪VS10位の浦和レッズが初年度の開幕戦を戦い、今では日本ダービーやクラシコなんて言われるのですから、なんか因縁めいたものがありますよね)。

■当時注目を浴びていた松波正信はやはり凄かった

1993年ガンバ大阪はあまりぱっとしなかったと上記で表しましたが、ニュースターが誕生したことは間違いありません。

それが松波正信です。

松波は高校2年の頃、第70回全国高校サッカー選手権で7得点を挙げ得点王に輝き、さらには帝京高校を優勝に導きました。

そんな松波には当時鹿島アントラーズ、ジェフユナイテッド市原、名古屋グランパスエイトからオファーが来たのですが、ガンバ大阪に加入しました。

注目を浴びた松波ですが、開幕戦ではベンチ入りをしませんでした。

それでも腐ることなくチームに溶け込むと、11節のサンフレッチェ広島戦で初ゴール。しかもそれがJリーグ通算100ゴール目となりました。

ニコスシリーズ14節のジェフ市原戦ではハットトリックを達成。Vゴール方式で3点目を取った瞬間にチームの勝利という最高の終わり方をし、注目を浴びました。

翌年は松波をエースに仕立てようとしたのか、それまでエースストライカーだった永島を清水エスパルスに放出しました。大型新人が期待を裏切らず活躍したガンバ大阪の初年度でした。

名古屋グランパスエイトのJリーグ元年(1993年)~超大物ストライカー、リネカーの獲得は…

公開日: : 最終更新日:2017/03/08 未分類

名古屋グランパスエイトのJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。名古屋グランパスエイトは超大物ストライカー、リネカーを獲得したが…そんな名古屋グランパスエイトがどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

グランパス

■リネカーと言う超大物を連れてきた名古屋グランパスエイト

1993年、Jリーグ元年を迎えるにあたって各チーム大物外国人を獲得してきました。

中でも鹿島アントラーズのジーコ、ジェフユナイテッド市原のリトバルスキー、名古屋グランパスエイトのリネカーは別格で、Jリーグ開幕前から騒がれていました。

リネカーは推定年俸で2億6500万円と言われていて、2位のジーコの推定年俸1億4000万円を大きく上回っていました。

リネカーはW杯で得点王に輝き、その期待のほどは凄まじいものでした。

しかしリネカーは最後に点を取るフィニッシャータイプで、ジーコのようなパスやリトバルスキーのドリブルと言った相手に囲まれた際に打開すると言ったタイプの選手ではないため、専門家の中には周りの選手が上手くなければリネカーを上手く活かすことができないためあまり活躍ができないのではないかと言う意見もありました。

私もリネカーにお膳立てできるほどの力は名古屋グランパスエイトにはないのではないかと思いました。

■開幕戦から躓いた名古屋グランパスエイト

さて1993年のJリーグ開幕戦、名古屋グランパスエイトは鹿島アントラーズと対戦しました。

この対戦はジーコ対リネカーとも言われ超注目カードでした。

とは言ってもカシマサッカースタジアムの規模がそこまで大きくなかったため、全試合で一番観客数は少なかったです。その数なんと前日に行われた読売ヴェルディ対横浜マリノスの6分の1程度の観客数でした。

そして試合はというと、鹿島アントラーズに5点取られまさかの5ー0の大敗。リネカーの見せ場はと言ったらゴールネットを揺らしたものの結果はオフサイドだったと言うシーン位で、懸念されていた周りとの連動はほぼ皆無でした。

皮肉にも同じく騒がれていた大物外国人ジーコはハットトリックする大活躍で、両者の明暗がくっきり分かれる形となりました(ジーコは前年から鹿島アントラーズにいたので条件が五分というわけではありませんでしたが)。

開幕戦から躓いた名古屋グランパスエイトはサントリーシリーズ9位、ニコスシリーズ8位と全くいいことなく1993年のシーズンを終わらせました。

■結局活躍できなかったリネカー

名古屋グランパスエイトに加入したリネカーですが、我もあり結局7試合に出場し1得点しか取れないという不名誉な記録を作ってしまいました。

特に名古屋グランパスエイトにいい影響を与えることなく退団するに至り、ネカーの獲得は失敗と言っても過言ではなかったでしょう。

ところであまり知られていないことですが、名古屋グランパスエイトは当時リネカーを獲得する前マラドーナの獲得を考えていたようです。リネカーではなくマラドーナを加入させていたら名古屋グランパスエイトは全く違う歴史を歩んでいたことでしょうね。

※追記
2016年、名古屋グランパスエイトはJ2降格となり、J2降格経験のないオリジナル10は鹿島アントラーズと横浜Fマリノスだけになってしまいました。残念です。

清水エスパルスのJリーグ元年(1993年)~強いのにタイトルとは無縁だった

公開日: : 最終更新日:2017/03/08 未分類

清水エスパルスのJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。ニコスシリーズ開幕直後に鉄壁の守護神シジマールを獲得した清水エスパルスはどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

エスパルス

■下馬評を覆したチームの一つ

1993年のJリーグが発足してから2016年現在まで、あまりタイトルを獲得することなくJ2に落ちてしまった清水エスパルスについて、お世辞にも「強い」と思う人は多く無いかもしれません。

しかし1993年のJリーグ元年から数年間、優勝争いに加わるチームとしてJリーグを盛り上げていました。

1993年のサントリーシリーズでは4位とまあまあいい成績だったものの、ニコスシリーズは2位となり、年間成績でも2位につけるなど大健闘でした。

ニコスシリーズの成績は14勝4敗(当時はVゴール方式を採用し引き分けなしだった)、得失点差は+17と優勝してもおかしく無いほどの成績でした。

ただ優勝した読売ヴェルディが16勝2敗と恐るべき好成績を残したため、2位に甘んじるという状況でした。

1993年Jリーグ10チームはそれぞれサッカーファンにいろいろな印象を与えたと思いますが、「意外に強い」と言うイメージを植え付けたのは鹿島アントラーズと清水エスパルスだったと思います。

■日本人の活躍が著しかった

1993年の清水エスパルスは外国人が活躍し、トニーニョの両手を広げる飛行機パフォーマンス(ネーミングは分かりませんが)は有名でした。

しかしそれ以上に活躍したのが日本人選手だったと思います。堀池巧、大榎克己、澤登正朗、長谷川健太と各ポジションで日本代表クラスの日本人がいてソツのないサッカーをしていました。私の周りにはヴェルディファンが多かったのですが、清水エスパルスの恐怖に怯えていたのを覚えています。

強いて残念でならないのがJリーグ年間成績2位、ニコスカップ2位に、ヤマザキナビスコカップ準優勝、天皇杯ベスト4と安定したけどタイトルとは無縁だったということですね。

■一番日本に影響を与えた外国人GK

みなさんシジマールという外国人選手をご存知でしょうか。長身GKで当初6試合連続無失点と言う記録まで作り、「どうやってこいつから点取るの?」と思ったサッカーファンもいたことでしょう。

GKでここまで影響を与えた選手はいないのではないでしょうか。

確かシジマールはバラエティのPK合戦に出演して助走するキッカーの足とボールを交互に見てどっちに飛ぶか決めると言っていたのをよく覚えています。

私はサッカーをしていてポジションはGKだったのですが、相手をずっと見てどちらに来るか賭けていたので「そういう決め方があるのか」といろいろ教えさせられたのを覚えています。

そして私は鹿島アントラーズファンだったのですが、一番好きな選手はシジマールでした。タイトルを取っていたらもっと騒がれていたでしょうね!

横浜フリューゲルスのJリーグ元年(1993年)~インパクトが足りなかった横浜フリューゲルス

公開日: : 最終更新日:2017/03/08 未分類

横浜フリューゲルスのJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。今は横浜マリノスに組み込まれる形となった横浜フリューゲルスがどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

フリューゲルス

■1993年の横浜フリューゲルスと言えば

Jリーグ元年である1993年、横浜フリューゲルスはサントリーシリーズ7位、ニコスシリーズ7位と恐らく横浜フリューゲルスファン以外からは何の印象も持たれないような成績でシーズンを終わらせることになりました(強かったらもちろん弱すぎても印象に残るのですが、一番パッとしない形でシーズンを終えた)。

さらに観客動員も思わしくなく、サントリーシリーズの3節に浦和と対戦した試合で観客動員数7469人と言う最小観客動員数と言う不名誉な記録まで作ってしまいました。

同じ横浜にマリノスがあったため、他のチームと比べて観客動員数の面で不利ということを加味しても、中々うまくいかなかったというのが現状だったことでしょう。

しかし、リーグとは別に1993年の天皇杯(決勝だけは1994年1月1日に行われましたが)では快進撃を見せました。

準々決勝ではJリーグの王者のヴェルディを2ー1で下し、準決勝では横浜マリノスを下したサンフレッチェ広島に勝利。決勝戦ではサントリーシリーズの覇者である鹿島アントラーズに勝ち優勝しました。

中でも決勝戦の鹿島アントラーズ戦は集中力が凄く、2ー2で前後半終了。延長戦に入ると4点を立て続けに取りました。

Jリーグを見なれたサッカーファンはVゴールじゃない面白さと怖さを同時に味わったのでは無いでしょうか。

■残念ながらスポンサーが離れた

1993年の観客動員数から見て何となくわかるように、クラブ運営はうまくいったものではありませんでした。

1998年には運営するのが難しく、ついにはチームの解散(実際にはマリノスに吸収合併される形)が余儀なくされました。当時選手たちがメインスポンサーである全日空のロゴを隠して試合前の写真撮影した事を今でも覚えています。

1993年にJリーグが開幕する頃には自分が子供だったということもありますが、チームが消滅するなんて考えもしなかったことですが、大人目線で見るとプロなのだから利益を出さなければいけないと言う厳しい目も持つことができるようになりました。

とにかく横浜フリューゲルスの事実上の撤退はサッカー関係者、選手達にとって気を引き締めさせる重大な出来事でした。高いパフォーマンスをしなければ自分がクビになるだけでなくチームの存続がなくなると言う意識を持ってプレイしてもらいたいものですね。

■THE ALFEE提供の応援歌は一番良かった

横浜フリューゲルスファンがこの記事を見たら怒るかもしれませんが、私の目から見てパッとしないチームでした。

GKの森、外国人選手のモネールなんかは印象に残っていますが、めちゃくちゃ活躍したというわけではないためメディアもそこまで追いかけませんでした。

そんな中唯一と言ってもいい希望の光が応援歌ではないでしょうか。

1993年にJリーグが開幕されるにあたって各クラブチームは応援歌をCDで出していました。もちろん全てのチームの応援歌を覚えているわけではありませんが、横浜フリューゲルスの応援歌はTHE ALFEEが提供していて1チームだけずば抜けてかっこいい曲だったのを覚えています。

当時のサッカー人気に便乗していろいろタイアップしたらもっと成功できたのにと勿体無い気でいっぱいです。

横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)のJリーグ元年(1993年)~タイトル奪取とはいかなかった苦い思い出

公開日: : 最終更新日:2017/03/08 未分類

横浜マリノスのJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。優勝候補とされ、得点王を輩出したにもかかわらず優勝できなかった横浜マリノスがどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

Fマリノス

■1993年、Jリーグ初の勝者横浜マリノス

1993年5月15日は日本サッカー界の歴史が変わった一日である事は間違いないでしょう。

Jリーグの開幕に登場したのは人気1,2のクラブである読売ヴェルディと横浜マリノスでした。この2チームは開幕前から別格でJリーグ元年の幕開けにふさわしい試合を展開してくれました。

試合は読売ヴェルディのマイヤーが先制し前半を1ー0で折り返すものの、後半に横浜マリノスが反撃開始。後半3分にエバートンのゴールで追いつくと14分にディアスのゴールで逆転。見てるものをハラハラドキドキさせる見所満載の好ゲームでした。

あの試合を見て「Jリーグは成功するな」と思ったのは私だけじゃなかったはずです。

1993年に1stシリーズであるサントリーシリーズを優勝したのは鹿島アントラーズでしたが、この2チームはやはり重みと言うか人気と言うか、とにかく他の8チームとは違う感じでした。

■ベストイレブンに三人輝く

1993年の横浜マリノスはサントリーシリーズ3位、ニコスシリーズ3位と安定した力を見せたものの、タイトル獲得はなりませんでした。

それでもディアスがJリーグ初代得点王に輝いたり、日本代表GK松永、DF井原も存在感を十分に発揮し、ベストイレブンに三人もの名を連ねました。

横浜マリノスファンだけでなく1993年の日本サッカー界を盛り上げたのは間違いありません。

2016年現在、開幕当初からトップリーグに在籍しているのは鹿島アントラーズ、横浜マリノス(今は横浜てFマリノスですが)、名古屋グランパス(追記:その後J2降格が決定)しかないという点から見ても、安定感の良さやクラブ運営の充実度が伺えるチームです。

■読売ヴェルディと共にJリーグを牽引していた

横浜マリノスはJリーグの開幕戦で対戦した読売ヴェルディとは切っても切り離せない縁で、Jリーグが始まるはるか前から日本サッカー界を牽引してきました。当時から黄金カードなんて言われていましたね。

今ではオシャレにクラシコなんて言ったりしますが(現在レッズ対ガンバをクラシコなんて言う人がいますが、それに対しては不満で、私はこのヴェルディ対横浜こそクラシコだと思っています)、この開幕戦は選手達にとってもやはり異様で、当時横浜マリノスの選手だった水沼氏が試合前のアップの段階で感極まって泣いていた選手もいたという程でした。

全ての重圧を払拭したこの2チームの開幕戦に対しては、アンチヴェルディ、アンチマリノスのサッカーファンも拍手を送ることでしょう。

読売ヴェルディ(現・東京ヴェルディ1969)のJリーグ元年(1993年)~憎いほど強かったヴェルディ

公開日: : 最終更新日:2017/03/08 未分類

読売ヴェルディのJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。

漠然に強いというイメージが残った読売ヴェルディの何がすごかったのか、またどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

ベルディ

■とにかく強かった読売ヴェルディ

1993年の読売ヴェルディは実力が頭一つ分位飛び出て他を圧倒していました。

サントリーシリーズ(1stシリーズ)こそ歯車が噛み合わず優勝を逃しましたが(と言っても2位で終わり優勝まであと一歩という状態でした)、ニコスシリーズ(2ndシリーズ)ではぶっちぎりの1位で優勝しました。

しかもニコスシリーズでは16勝2敗、得点43、失点10の得失点差+33で終わる凄まじい成績をあげました。ちなみにサントリーシリーズで優勝した鹿島アントラーズは得失点差+23でした。

Jリーグ元年はVゴール方式を導入しとにかく引き分けを無くすと言ったシステムを取られていたため、読売ヴェルディは本当に勝ち切ると言うチームでした。

読売ヴェルディは今後も日本サッカー界を引っ張り野球でいう巨人のような存在になっていくだろうということが予想されました。

しかし当時人気があった日本代表組が移籍や引退をしメンバーが入れ替わると勝てなくなり、J2に落ちてしまったのです。

当時ラモス選手はヴェルディがJ2降格して「めちゃくちゃ悔しい」といい、過去のチームでも愛着があるコメントを残しています。

J2に落ちて以降はずっとJ1に復帰することは無いのですが、いずれ復帰した際には報道が凄くなることが予想されます。

■隙がなかった読売ヴェルディ

1993年のニコスシリーズでは読売ヴェルディには隙がありませんでした。

サントリーシリーズでは開幕戦に負けたりと選手間の確執が浮き彫りとなる形で成績は振るいませんでした(と言っても2位ですが!)。

が、ニコスシリーズになると歯車が噛み合います。三浦知良、武田修宏、ラモス瑠偉、北澤豪、柱谷哲二、都並敏史、菊池新吉と言った日本代表組に加え、ビスマルク、ペレイラを擁し圧倒的な力を発揮します。

1993年の読売ヴェルディには他チームのオールスターでも勝てなかったのでは無いかと言うくらい強く、さらに層の厚いチームでした。

そして監督はサッカー解説でおなじみのあの松木安太郎さんです。「キーパーがいなければ今のゴールできてたのに」とか「今のファールだろ」と言って解説ではなくむしろ飲みながら日本代表を応援しているあのおじさんが凄腕監督だったんですよ。今の若者には絶対想像できないでしょうけど、あそこまでのチームを作るには松木監督の他にはできなかったでしょう。

その松木監督率いる読売ヴェルディはサントリーシリーズとニコスシリーズの覇者で争うJリーグチャンピオンシップでも鹿島アントラーズを下し、Jリーグの初代チャンピオンとなっています。

■日本サッカー界が強くなるためには読売ヴェルディが必要だった

今思うとですよ。今思うと読売ヴェルディがスター選手を集めまくって王座の位置に君臨し続ける。そして他チームは常に挑戦し続ける。そういった構造ができた方が日本サッカー界が強くなったことでしょう。

海外でいうレアルみたいなチームを作り、アジア優勝当たり前と言うチームは作れたはずです。

資金を出し渋り、衰退していく読売ヴェルディと日本サッカー界がダブらなければいいのですが…。

浦和レッドダイヤモンズのJリーグ元年(1993年)~呪われたチーム

公開日: : 最終更新日:2017/03/08 未分類

浦和レッドダイヤモンズのJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。とにかく勝てなかった誤算続きの浦和レッズがどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

レッズ

■1993年の浦和レッドダイヤモンズ

今でこそ浦和レッドダイヤモンズと言えば日本を代表する強豪チームの一つとして常に優勝争いに加わっているイメージがありますが、Jリーグ元年である1993年は酷いものでした。

1993年はサントリーシリーズ、ニコスシリーズと2シーズン制だったのですが、そのどちらでも最下位。

しかもサントリーシリーズは目の前で対戦相手である鹿島アントラーズが優勝、ニコスシリーズでは同じく目の前で対戦相手である読売ヴェルディが優勝するなどいいところが無いどころか運にまで見放されていました。

どのチームもJリーグ元年は外国人プレーヤーに頼る傾向が強かったのですが、下位のチームに共通して言えることは、彼らの活躍が予想を大幅に下回ると言うことでした。

浦和レッドダイヤモンズも例外ではなく、外国人プレーヤーの不調、そこから来るチーム方針の崩壊が、原因となり最下位が定位置となってしまったのです。

■Jリーグ元年ならではの恥ずかしいプレーもあった

さらにJリーグ元年という事もあり、お粗末なプレーも飛び出します。

鹿島アントラーズ戦で先制点を取ったにもかかわらず、その30秒以内に(もっと早かったかもしれません)取り返されるというシーンがありました。

しかもその取られ方があまりにもお粗末です。なんと喜んでいる間に試合が始まってしまって、気がついたら攻め込まれていて点を取られるというなんとも情けない点の取られ方でした。

ここであれっと思う方いませんか?どのチームも点数取って喜ぶのは当たり前ですよね。でも試合は始まりません。理由は選手が自陣にいないと試合が始まらないからです(鹿島の自陣に浦和の選手が一人でもいたら試合は開始されません。)

しかし浦和レッドダイヤモンズの選手は全員自陣で抱き合っていたのです。それを見逃さなかった鹿島アントラーズの選手はボールをセット。審判はルールに則り試合再開のホイッスル。あっけなくゴールという悲劇です。

浦和はずっと勝てていなく先制点を取って喜びたいのは分かりますが、プロとしてはかなり恥ずかしい点の取られ方でしたね。

■結局最後まで浮上できなかったレッズだったが……

1993年結局浦和レッドダイヤモンズは最後まで浮上できませんでした。そればかりか翌シーズンも最下位になってしまいます。

それでも力をつけていったのは事実で、そこからは他チームとの力の差もなくなっていきました。

ジェフユナイテッド市原のJリーグ元年(1993年)~リトバルスキーの功績!

公開日: : 最終更新日:2017/03/08 未分類

ジェフユナイテッド市原のJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。リトバルスキーを中心にチーム作りをしていったジェフユナイテッド市原がどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

ジェフ

■ジェフユナイテッド市原のサッカー

1993年にJリーグが開幕したわけですが、その際に外国人がチームに及ぼす影響は絶大でした。

今と違って日本人のレベルがまだまだ発展途上だったためその差は歴然です。

日本人選手はそんな偉大な外国人プレーヤーのスキルを盗もうと必死だったことでしょう。多くのチームで見られたのがブラジル人選手を獲得することでした。鹿島アントラーズや読売ヴェルディなんかもその路線でした。

しかしジェフユナイテッド市原は当時珍しくヨーロッパの選手を引き入れました。

恐らくチームの狙いとして個人のスキルでの打開ではなくチーム力を上げていくというチームビジョンがあったのでは無いかと思われます。

キーパーには下川、MFには中西と言った日本を代表する選手を要し当時加入したリトバルスキーについて行くというコンセプトが見受けられました。

■リトバルスキーのプレーは最高だった

1993年のJリーグ開幕を迎えるにあたって各チーム外国人の存在はとても重要だったことは上記でも触れましたが、中でも鹿島アントラーズのジーコ、ジェフユナイテッド市原のリトバルスキー、名古屋グランパスエイトのリネカーの話題は別格でした。

私が思うにこの中で表立って活躍したのはタイトル獲得や日本人選手への影響ということを加味するとジーコだったのでは無いかと思います。

しかし、一番圧巻なプレーをしたのはリトバルスキーだったのでは無いでしょうか。

前記の三選手はやはり全盛期に比べると力の衰えが否めませんでしたが、リトバルスキーのドリブルは健在で見ているものを魅了しました。

そもそもリトバルスキーがW杯で優勝したのは1990年のこと。しかも当時西ドイツにはマテウス、クリンスマン、ブレーメと言ったスーパースターが存在したわけですが、リトバルスキーもエース級の働きをしていました。(ちなみに1990年W杯の決勝はアルゼンチンと対戦したわけですが、贔屓目なしにリトバルスキーが一番輝いていました)

そんな選手が3年後、日本でプレーしてるなんて誰が想像できるでしょう。言ってみればラームやシュバインシュタイガーが今Jリーグに来ているようなものです。

セレッソがフォルランを獲得した際相当騒がれましたが、それ以上に凄いことだったと私は思います。

そしてリトバルスキーはチームを牽引し続け多大な貢献をしました。

私は彼のプレーを生で一度見たのですがやはり圧巻でした。鹿島アントラーズファンだった兄がジェフユナイテッド市原のファンに切り替わってしまったのは彼のプレーによるものです。

■ジェフユナイテッド市原は将来のあるチームに映った

1993年のJリーグ元年、ジェフユナイテッド市原はさほどいい成績を収めることは出来ませんでしたが、将来性を感じさせるチームだったという事は間違いありませんでした。

初戦は広島に敗戦したものの、2節では読売ヴェルディに2ー1、5節では横浜マリノスに5ー0で大勝し、4連勝。波に乗ったら止められず大物食いをするチームというイメージが持たれたことでしょう。

当時5ー0というスコアを見なれない日本人ファンからしてみたらこのままジェフが優勝してしまうのでは無いかと思ったのではないでしょうか。

意外性、爆発性に富んでいて見ているものを飽きさせないチームという意味ではJリーグナンバー1だったかもしれません。

リトバルスキーもコンスタントに高いパフォーマンスを見せてくれてファンも着実に増えていきました。

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    ライター。無類のサッカー好き。海外サッカー、Jリーグ問わずウォッチしています。
    高校時代のポジションはGK。
    伝説の開幕戦、鹿島アントラーズVS名古屋グランパスエイトの試合、ジーコ対リネカーの試合を見ることができたことは、今でも私の人生の自慢話の一つです。

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