名古屋グランパスエイトのJリーグ元年(1993年)~超大物ストライカー、リネカーの獲得は…

名古屋グランパスエイトのJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。名古屋グランパスエイトは超大物ストライカー、リネカーを獲得したが…そんな名古屋グランパスエイトがどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

■リネカーと言う超大物を連れてきた名古屋グランパスエイト

1993年、Jリーグ元年を迎えるにあたって各チーム大物外国人を獲得してきました。

中でも鹿島アントラーズのジーコ、ジェフユナイテッド市原のリトバルスキー、名古屋グランパスエイトのリネカーは別格で、Jリーグ開幕前から騒がれていました。

リネカーは推定年俸で2億6500万円と言われていて、2位のジーコの推定年俸1億4000万円を大きく上回っていました。

リネカーはW杯で得点王に輝き、その期待のほどは凄まじいものでした。

しかしリネカーは最後に点を取るフィニッシャータイプで、ジーコのようなパスやリトバルスキーのドリブルと言った相手に囲まれた際に打開すると言ったタイプの選手ではないため、専門家の中には周りの選手が上手くなければリネカーを上手く活かすことができないためあまり活躍ができないのではないかと言う意見もありました。

私もリネカーにお膳立てできるほどの力は名古屋グランパスエイトにはないのではないかと思いました。

■開幕戦から躓いた名古屋グランパスエイト

さて1993年のJリーグ開幕戦、名古屋グランパスエイトは鹿島アントラーズと対戦しました。

この対戦はジーコ対リネカーとも言われ超注目カードでした。

とは言ってもカシマサッカースタジアムの規模がそこまで大きくなかったため、全試合で一番観客数は少なかったです。その数なんと前日に行われた読売ヴェルディ対横浜マリノスの6分の1程度の観客数でした。

そして試合はというと、鹿島アントラーズに5点取られまさかの5ー0の大敗。リネカーの見せ場はと言ったらゴールネットを揺らしたものの結果はオフサイドだったと言うシーン位で、懸念されていた周りとの連動はほぼ皆無でした。

皮肉にも同じく騒がれていた大物外国人ジーコはハットトリックする大活躍で、両者の明暗がくっきり分かれる形となりました(ジーコは前年から鹿島アントラーズにいたので条件が五分というわけではありませんでしたが)。

開幕戦から躓いた名古屋グランパスエイトはサントリーシリーズ9位、ニコスシリーズ8位と全くいいことなく1993年のシーズンを終わらせました。

■結局活躍できなかったリネカー

名古屋グランパスエイトに加入したリネカーですが、我もあり結局7試合に出場し1得点しか取れないという不名誉な記録を作ってしまいました。

特に名古屋グランパスエイトにいい影響を与えることなく退団するに至り、ネカーの獲得は失敗と言っても過言ではなかったでしょう。

ところであまり知られていないことですが、名古屋グランパスエイトは当時リネカーを獲得する前マラドーナの獲得を考えていたようです。リネカーではなくマラドーナを加入させていたら名古屋グランパスエイトは全く違う歴史を歩んでいたことでしょうね。

※追記
2016年、名古屋グランパスエイトはJ2降格となり、J2降格経験のないオリジナル10は鹿島アントラーズと横浜Fマリノスだけになってしまいました。残念です。

清水エスパルスのJリーグ元年(1993年)~強いのにタイトルとは無縁だった

■下馬評を覆したチームの一つ

1993年のJリーグが発足してから2016年現在まで、あまりタイトルを獲得することなくJ2に落ちてしまった清水エスパルスについて、お世辞にも「強い」と思う人は多く無いかもしれません。

しかし1993年のJリーグ元年から数年間、優勝争いに加わるチームとしてJリーグを盛り上げていました。

1993年のサントリーシリーズでは4位とまあまあいい成績だったものの、ニコスシリーズは2位となり、年間成績でも2位につけるなど大健闘でした。

ニコスシリーズの成績は14勝4敗(当時はVゴール方式を採用し引き分けなしだった)、得失点差は+17と優勝してもおかしく無いほどの成績でした。

ただ優勝した読売ヴェルディが16勝2敗と恐るべき好成績を残したため、2位に甘んじるという状況でした。

1993年Jリーグ10チームはそれぞれサッカーファンにいろいろな印象を与えたと思いますが、「意外に強い」と言うイメージを植え付けたのは鹿島アントラーズと清水エスパルスだったと思います。

■日本人の活躍が著しかった

1993年の清水エスパルスは外国人が活躍し、トニーニョの両手を広げる飛行機パフォーマンス(ネーミングは分かりませんが)は有名でした。

しかしそれ以上に活躍したのが日本人選手だったと思います。堀池巧、大榎克己、澤登正朗、長谷川健太と各ポジションで日本代表クラスの日本人がいてソツのないサッカーをしていました。私の周りにはヴェルディファンが多かったのですが、清水エスパルスの恐怖に怯えていたのを覚えています。

強いて残念でならないのがJリーグ年間成績2位、ニコスカップ2位に、ヤマザキナビスコカップ準優勝、天皇杯ベスト4と安定したけどタイトルとは無縁だったということですね。

■一番日本に影響を与えた外国人GK

みなさんシジマールという外国人選手をご存知でしょうか。長身GKで当初6試合連続無失点と言う記録まで作り、「どうやってこいつから点取るの?」と思ったサッカーファンもいたことでしょう。

GKでここまで影響を与えた選手はいないのではないでしょうか。

確かシジマールはバラエティのPK合戦に出演して助走するキッカーの足とボールを交互に見てどっちに飛ぶか決めると言っていたのをよく覚えています。

私はサッカーをしていてポジションはGKだったのですが、相手をずっと見てどちらに来るか賭けていたので「そういう決め方があるのか」といろいろ教えさせられたのを覚えています。

そして私は鹿島アントラーズファンだったのですが、一番好きな選手はシジマールでした。タイトルを取っていたらもっと騒がれていたでしょうね!

横浜フリューゲルスのJリーグ元年(1993年)~インパクトが足りなかった横浜フリューゲルス

横浜フリューゲルスのJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。今は横浜マリノスに組み込まれる形となった横浜フリューゲルスがどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

■1993年の横浜フリューゲルスと言えば

Jリーグ元年である1993年、横浜フリューゲルスはサントリーシリーズ7位、ニコスシリーズ7位と恐らく横浜フリューゲルスファン以外からは何の印象も持たれないような成績でシーズンを終わらせることになりました(強かったらもちろん弱すぎても印象に残るのですが、一番パッとしない形でシーズンを終えた)。

さらに観客動員も思わしくなく、サントリーシリーズの3節に浦和と対戦した試合で観客動員数7469人と言う最小観客動員数と言う不名誉な記録まで作ってしまいました。

同じ横浜にマリノスがあったため、他のチームと比べて観客動員数の面で不利ということを加味しても、中々うまくいかなかったというのが現状だったことでしょう。

しかし、リーグとは別に1993年の天皇杯(決勝だけは1994年1月1日に行われましたが)では快進撃を見せました。

準々決勝ではJリーグの王者のヴェルディを2ー1で下し、準決勝では横浜マリノスを下したサンフレッチェ広島に勝利。決勝戦ではサントリーシリーズの覇者である鹿島アントラーズに勝ち優勝しました。

中でも決勝戦の鹿島アントラーズ戦は集中力が凄く、2ー2で前後半終了。延長戦に入ると4点を立て続けに取りました。

Jリーグを見なれたサッカーファンはVゴールじゃない面白さと怖さを同時に味わったのでは無いでしょうか。

■残念ながらスポンサーが離れた

1993年の観客動員数から見て何となくわかるように、クラブ運営はうまくいったものではありませんでした。

1998年には運営するのが難しく、ついにはチームの解散(実際にはマリノスに吸収合併される形)が余儀なくされました。当時選手たちがメインスポンサーである全日空のロゴを隠して試合前の写真撮影した事を今でも覚えています。

1993年にJリーグが開幕する頃には自分が子供だったということもありますが、チームが消滅するなんて考えもしなかったことですが、大人目線で見るとプロなのだから利益を出さなければいけないと言う厳しい目も持つことができるようになりました。

とにかく横浜フリューゲルスの事実上の撤退はサッカー関係者、選手達にとって気を引き締めさせる重大な出来事でした。高いパフォーマンスをしなければ自分がクビになるだけでなくチームの存続がなくなると言う意識を持ってプレイしてもらいたいものですね。

■THE ALFEE提供の応援歌は一番良かった

横浜フリューゲルスファンがこの記事を見たら怒るかもしれませんが、私の目から見てパッとしないチームでした。

GKの森、外国人選手のモネールなんかは印象に残っていますが、めちゃくちゃ活躍したというわけではないためメディアもそこまで追いかけませんでした。

そんな中唯一と言ってもいい希望の光が応援歌ではないでしょうか。

1993年にJリーグが開幕されるにあたって各クラブチームは応援歌をCDで出していました。もちろん全てのチームの応援歌を覚えているわけではありませんが、横浜フリューゲルスの応援歌はTHE ALFEEが提供していて1チームだけずば抜けてかっこいい曲だったのを覚えています。

当時のサッカー人気に便乗していろいろタイアップしたらもっと成功できたのにと勿体無い気でいっぱいです。

横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)のJリーグ元年(1993年)~タイトル奪取とはいかなかった苦い思い出5_

横浜マリノスのJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。優勝候補とされ、得点王を輩出したにもかかわらず優勝できなかった横浜マリノスがどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

■1993年、Jリーグ初の勝者横浜マリノス

1993年5月15日は日本サッカー界の歴史が変わった一日である事は間違いないでしょう。

Jリーグの開幕に登場したのは人気1,2のクラブである読売ヴェルディと横浜マリノスでした。この2チームは開幕前から別格でJリーグ元年の幕開けにふさわしい試合を展開してくれました。

試合は読売ヴェルディのマイヤーが先制し前半を1ー0で折り返すものの、後半に横浜マリノスが反撃開始。後半3分にエバートンのゴールで追いつくと14分にディアスのゴールで逆転。見てるものをハラハラドキドキさせる見所満載の好ゲームでした。

あの試合を見て「Jリーグは成功するな」と思ったのは私だけじゃなかったはずです。

1993年に1stシリーズであるサントリーシリーズを優勝したのは鹿島アントラーズでしたが、この2チームはやはり重みと言うか人気と言うか、とにかく他の8チームとは違う感じでした。

■ベストイレブンに三人輝く

1993年の横浜マリノスはサントリーシリーズ3位、ニコスシリーズ3位と安定した力を見せたものの、タイトル獲得はなりませんでした。

それでもディアスがJリーグ初代得点王に輝いたり、日本代表GK松永、DF井原も存在感を十分に発揮し、ベストイレブンに三人もの名を連ねました。

横浜マリノスファンだけでなく1993年の日本サッカー界を盛り上げたのは間違いありません。

2016年現在、開幕当初からトップリーグに在籍しているのは鹿島アントラーズ、横浜マリノス(今は横浜てFマリノスですが)、名古屋グランパス(追記:その後J2降格が決定)しかないという点から見ても、安定感の良さやクラブ運営の充実度が伺えるチームです。

■読売ヴェルディと共にJリーグを牽引していた

横浜マリノスはJリーグの開幕戦で対戦した読売ヴェルディとは切っても切り離せない縁で、Jリーグが始まるはるか前から日本サッカー界を牽引してきました。当時から黄金カードなんて言われていましたね。

今ではオシャレにクラシコなんて言ったりしますが(現在レッズ対ガンバをクラシコなんて言う人がいますが、それに対しては不満で、私はこのヴェルディ対横浜こそクラシコだと思っています)、この開幕戦は選手達にとってもやはり異様で、当時横浜マリノスの選手だった水沼氏が試合前のアップの段階で感極まって泣いていた選手もいたという程でした。

全ての重圧を払拭したこの2チームの開幕戦に対しては、アンチヴェルディ、アンチマリノスのサッカーファンも拍手を送ることでしょう。

読売ヴェルディ(現・東京ヴェルディ1969)のJリーグ元年(1993年)~憎いほど強かったヴェルディ

■とにかく強かった読売ヴェルディ

1993年の読売ヴェルディは実力が頭一つ分位飛び出て他を圧倒していました。

サントリーシリーズ(1stシリーズ)こそ歯車が噛み合わず優勝を逃しましたが(と言っても2位で終わり優勝まであと一歩という状態でした)、ニコスシリーズ(2ndシリーズ)ではぶっちぎりの1位で優勝しました。

しかもニコスシリーズでは16勝2敗、得点43、失点10の得失点差+33で終わる凄まじい成績をあげました。ちなみにサントリーシリーズで優勝した鹿島アントラーズは得失点差+23でした。

Jリーグ元年はVゴール方式を導入しとにかく引き分けを無くすと言ったシステムを取られていたため、読売ヴェルディは本当に勝ち切ると言うチームでした。

読売ヴェルディは今後も日本サッカー界を引っ張り野球でいう巨人のような存在になっていくだろうということが予想されました。

しかし当時人気があった日本代表組が移籍や引退をしメンバーが入れ替わると勝てなくなり、J2に落ちてしまったのです。

当時ラモス選手はヴェルディがJ2降格して「めちゃくちゃ悔しい」といい、過去のチームでも愛着があるコメントを残しています。

J2に落ちて以降はずっとJ1に復帰することは無いのですが、いずれ復帰した際には報道が凄くなることが予想されます。

■隙がなかった読売ヴェルディ

1993年のニコスシリーズでは読売ヴェルディには隙がありませんでした。

サントリーシリーズでは開幕戦に負けたりと選手間の確執が浮き彫りとなる形で成績は振るいませんでした(と言っても2位ですが!)。

が、ニコスシリーズになると歯車が噛み合います。三浦知良、武田修宏、ラモス瑠偉、北澤豪、柱谷哲二、都並敏史、菊池新吉と言った日本代表組に加え、ビスマルク、ペレイラを擁し圧倒的な力を発揮します。

1993年の読売ヴェルディには他チームのオールスターでも勝てなかったのでは無いかと言うくらい強く、さらに層の厚いチームでした。

そして監督はサッカー解説でおなじみのあの松木安太郎さんです。「キーパーがいなければ今のゴールできてたのに」とか「今のファールだろ」と言って解説ではなくむしろ飲みながら日本代表を応援しているあのおじさんが凄腕監督だったんですよ。今の若者には絶対想像できないでしょうけど、あそこまでのチームを作るには松木監督の他にはできなかったでしょう。

その松木監督率いる読売ヴェルディはサントリーシリーズとニコスシリーズの覇者で争うJリーグチャンピオンシップでも鹿島アントラーズを下し、Jリーグの初代チャンピオンとなっています。

■日本サッカー界が強くなるためには読売ヴェルディが必要だった

今思うとですよ。今思うと読売ヴェルディがスター選手を集めまくって王座の位置に君臨し続ける。そして他チームは常に挑戦し続ける。そういった構造ができた方が日本サッカー界が強くなったことでしょう。

海外でいうレアルみたいなチームを作り、アジア優勝当たり前と言うチームは作れたはずです。

資金を出し渋り、衰退していく読売ヴェルディと日本サッカー界がダブらなければいいのですが…。

浦和レッドダイヤモンズのJリーグ元年(1993年)~呪われたチーム

浦和レッドダイヤモンズのJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。とにかく勝てなかった誤算続きの浦和レッズがどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

■1993年の浦和レッドダイヤモンズ

今でこそ浦和レッドダイヤモンズと言えば日本を代表する強豪チームの一つとして常に優勝争いに加わっているイメージがありますが、Jリーグ元年である1993年は酷いものでした。

1993年はサントリーシリーズ、ニコスシリーズと2シーズン制だったのですが、そのどちらでも最下位。

しかもサントリーシリーズは目の前で対戦相手である鹿島アントラーズが優勝、ニコスシリーズでは同じく目の前で対戦相手である読売ヴェルディが優勝するなどいいところが無いどころか運にまで見放されていました。

どのチームもJリーグ元年は外国人プレーヤーに頼る傾向が強かったのですが、下位のチームに共通して言えることは、彼らの活躍が予想を大幅に下回ると言うことでした。

浦和レッドダイヤモンズも例外ではなく、外国人プレーヤーの不調、そこから来るチーム方針の崩壊が、原因となり最下位が定位置となってしまったのです。

■Jリーグ元年ならではの恥ずかしいプレーもあった

さらにJリーグ元年という事もあり、お粗末なプレーも飛び出します。

鹿島アントラーズ戦で先制点を取ったにもかかわらず、その30秒以内に(もっと早かったかもしれません)取り返されるというシーンがありました。

しかもその取られ方があまりにもお粗末です。なんと喜んでいる間に試合が始まってしまって、気がついたら攻め込まれていて点を取られるというなんとも情けない点の取られ方でした。

ここであれっと思う方いませんか?どのチームも点数取って喜ぶのは当たり前ですよね。でも試合は始まりません。理由は選手が自陣にいないと試合が始まらないからです(鹿島の自陣に浦和の選手が一人でもいたら試合は開始されません。)

しかし浦和レッドダイヤモンズの選手は全員自陣で抱き合っていたのです。それを見逃さなかった鹿島アントラーズの選手はボールをセット。審判はルールに則り試合再開のホイッスル。あっけなくゴールという悲劇です。

浦和はずっと勝てていなく先制点を取って喜びたいのは分かりますが、プロとしてはかなり恥ずかしい点の取られ方でしたね。

■結局最後まで浮上できなかったレッズだったが……

1993年結局浦和レッドダイヤモンズは最後まで浮上できませんでした。そればかりか翌シーズンも最下位になってしまいます。

それでも力をつけていったのは事実で、そこからは他チームとの力の差もなくなっていきました。

ジェフユナイテッド市原のJリーグ元年(1993年)~リトバルスキーの功績!

ジェフユナイテッド市原のJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。リトバルスキーを中心にチーム作りをしていったジェフユナイテッド市原がどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

ジェフ

■ジェフユナイテッド市原のサッカー

1993年にJリーグが開幕したわけですが、その際に外国人がチームに及ぼす影響は絶大でした。

今と違って日本人のレベルがまだまだ発展途上だったためその差は歴然です。

日本人選手はそんな偉大な外国人プレーヤーのスキルを盗もうと必死だったことでしょう。多くのチームで見られたのがブラジル人選手を獲得することでした。鹿島アントラーズや読売ヴェルディなんかもその路線でした。

しかしジェフユナイテッド市原は当時珍しくヨーロッパの選手を引き入れました。

恐らくチームの狙いとして個人のスキルでの打開ではなくチーム力を上げていくというチームビジョンがあったのでは無いかと思われます。

キーパーには下川、MFには中西と言った日本を代表する選手を要し当時加入したリトバルスキーについて行くというコンセプトが見受けられました。

■リトバルスキーのプレーは最高だった

1993年のJリーグ開幕を迎えるにあたって各チーム外国人の存在はとても重要だったことは上記でも触れましたが、中でも鹿島アントラーズのジーコ、ジェフユナイテッド市原のリトバルスキー、名古屋グランパスエイトのリネカーの話題は別格でした。

私が思うにこの中で表立って活躍したのはタイトル獲得や日本人選手への影響ということを加味するとジーコだったのでは無いかと思います。

しかし、一番圧巻なプレーをしたのはリトバルスキーだったのでは無いでしょうか。

前記の三選手はやはり全盛期に比べると力の衰えが否めませんでしたが、リトバルスキーのドリブルは健在で見ているものを魅了しました。

そもそもリトバルスキーがW杯で優勝したのは1990年のこと。しかも当時西ドイツにはマテウス、クリンスマン、ブレーメと言ったスーパースターが存在したわけですが、リトバルスキーもエース級の働きをしていました。(ちなみに1990年W杯の決勝はアルゼンチンと対戦したわけですが、贔屓目なしにリトバルスキーが一番輝いていました)

そんな選手が3年後、日本でプレーしてるなんて誰が想像できるでしょう。言ってみればラームやシュバインシュタイガーが今Jリーグに来ているようなものです。

セレッソがフォルランを獲得した際相当騒がれましたが、それ以上に凄いことだったと私は思います。

そしてリトバルスキーはチームを牽引し続け多大な貢献をしました。

私は彼のプレーを生で一度見たのですがやはり圧巻でした。鹿島アントラーズファンだった兄がジェフユナイテッド市原のファンに切り替わってしまったのは彼のプレーによるものです。

■ジェフユナイテッド市原は将来のあるチームに映った

1993年のJリーグ元年、ジェフユナイテッド市原はさほどいい成績を収めることは出来ませんでしたが、将来性を感じさせるチームだったという事は間違いありませんでした。

初戦は広島に敗戦したものの、2節では読売ヴェルディに2ー1、5節では横浜マリノスに5ー0で大勝し、4連勝。波に乗ったら止められず大物食いをするチームというイメージが持たれたことでしょう。

当時5ー0というスコアを見なれない日本人ファンからしてみたらこのままジェフが優勝してしまうのでは無いかと思ったのではないでしょうか。

意外性、爆発性に富んでいて見ているものを飽きさせないチームという意味ではJリーグナンバー1だったかもしれません。

リトバルスキーもコンスタントに高いパフォーマンスを見せてくれてファンも着実に増えていきました。

鹿島アントラーズのJリーグ元年(1993年)~奇跡の軌跡

鹿島アントラーズのJリーグ元年(1993年)の見どころをまとめてみました。もっとも成功を収めているチームと言っても過言ではない鹿島アントラーズはどのようなスタートを切ったか振り返ってみましょう!

■Jリーグ元年!1993年の鹿島アントラーズは凄かった

1993年、Jリーグ元年。鹿島アントラーズはサントリーシリーズ(今で言う1stステージ)を制しました。

Jリーグ元年である1993年はサッカー人気がどうなるか全く予想がつかなかった為、鹿島アントラーズは前年に会員募集をし、なんと会員になったらホームゲームは何回見ても入場タダでした!

しかも私は会員になっていた為(しかも子供だった為年会費5000円という価格破壊が起きていました=年間パスポートを5000円で購入したようなもの)よくせがんで父に連れて行ったものです(ちなみに父は会員でなかった為、チケットが取れないと往復4時間かけただ送り迎えをしてくれました。本当に感謝してます……)

そしてあの伝説の開幕戦、鹿島アントラーズVS名古屋グランパスエイトの試合、ジーコ対リネカーの試合を見ることができたのです。

1993年の開幕戦はやはり別格で、今でも私の人生の自慢話の一つです。

■鹿島と言ったらやっぱりジーコ!

後々の事を考えると日本サッカー界の最大の買い物がジーコではないでしょうか。

当時一度は引退したジーコが、サッカー王国ブラジルで10番を背負い神様と崇められたジーコが来たのです。

ジーコはなんとJリーグ開幕戦でハットトリック達成!鹿島アントラーズの名前を一日で全国に轟かせまた。

その後ジーコが怪我をしても、彼のマインドを注入された選手達は奮起。サントリーシリーズ(1stステージ)を制覇しました。

それから今日まで鹿島アントラーズは初年度からJ1にい続ける数少ないチームとして安定した成功を収めているのです。

ジーコイズムと言う言葉は鹿島アントラーズのチームやファン、メディアがよく使う言葉ですが今後も使われ続けることでしょう。

■アルシンドや日本人選手の成長

外国人選手を助っ人と言う人が多い中、アルシンドに限ってはファミリーという方が似合う事でしょう。

アルシンドほど短期間で日本に馴染んだ外人はいないのではないでしょうか。ジーコが怪我をし不在でもアルシンドが点を取る。鹿島アントラーズの攻撃が確立されていたのです(実はもう一人サントスと言う地味だけど物凄くうまくて頼りになるプレーヤーもいたのですが)。

さらに長髪なのに頭頂部が禿げてる出で立ちで明るいキャラだったため人気は高かったです。CMにも出て「アルシンドになっちゃうよ〜」と言う言葉も大受けでした。

外国人だけでなく日本人の成長も著しかったです。大野、本田、黒崎など日本代表を排出しました。1993年のJリーグ元年、鹿島アントラーズと試合するのはどのチームも嫌だったはずです。その位の強さを発揮していました。

※追記
2016年、クラブW杯決勝でのレアルマドリードとの死闘は素晴らしかったですね。

Jリーグ開幕!Jリーグ元年(1993年)が凄かった理由とは?

Jリーグ開幕!Jリーグ元年(1993年)は誰の目から見ても成功に映るでしょう。ではなぜそのような成功を収めることができたのか。前年に行われたナビスコカップに焦点を当て紹介したいと思います。

■Jリーグ開幕する前年の事

先日バスケットのプロリーグであるBリーグが開幕されました。私の友人も開幕戦を観戦に行き異様な盛り上がりだったと興奮していました。

しかし、開幕戦こそテレビで放映していたものの、その後どうなったか全く分からなくないですか?

メディアも全くバスケについてきておらず、何チームあるのか、何試合やるのか全く見えてきません。

「いやいや、バスケ相当人気でしょ」というのは一部のバスケ好きだと思います。

それに比べてJリーグはどうでしょう。華々しいJリーグ元年を迎え「さぁ!日本にサッカーの時代が来た!」と思わせてくれましたよね。それには様々な要因があったと思います。

まず一つにJリーグ元年の前年に存在していたヤマザキナビスコカップ。私はあの存在が全てだったと思います。ヤマザキナビスコカップでサッカー熱を徐々に温めたことで、Jリーグ元年の開幕を「ドカン!」とサッカー人気を爆発させることに成功させたと思います。

■下地はかなり出来ていた

ヤマザキナビスコカップが開かれた頃、チームは徐々に過去に有名だった選手を外国から集めてきました。

さらにスタジアムの建設も着々と進めていました。

野球のプロチームが企業名を入れる中、サッカーは地域密着を掲げ地元でJリーグを盛り上げようと必死でした。

「サッカーを見る」という文化のない日本に「野球観戦だけでなくサッカー観戦という選択肢もある」と思わせてくれたのがこのナビスコカップです。

Bリーグ開幕の際にはこのナビスコカップに当たるものが無かった気がします。それを考えるとサッカーはうまくやったと思いますよ!

■Jリーグ元年の縁の下の力持ちであるナビスコカップは絶対に面白かった!

さらにこのナビスコカップ。かなり画期的でした。

と言うのも試合に勝ったら勝ち点を貰えるのですが、2得点したら勝ち点1追加するという世界でも類を見ないリーグだったのです。

サッカー玄人から言わせてみると「なんだそのふざけたルールは」とお叱りを受けそうですが、ノーガードの打ち合いなども観ることができ、素人ながら「サッカーおもしれぇ」と思いました。

このルールは素人をサッカーファンに引き込むのに超画期的なシステムだったと思います。(このシステムもまたJリーグ開幕の成功に結びつけたのは間違いありません)

ちなみに私はたまたまナビスコカップの鹿島アントラーズ対読売ヴェルディを観にいきました。4-3で鹿島が勝ち、凄い面白かったのを20年以上たった今でも覚えています。

しかも観戦する当日に父から「今からサッカー観に行くから」と言われわざわざ茨城のつくばから国立競技場に仕事を切り上げて連れて行ってくれました。

当時読売ヴェルディと日産マリノスしかチームを知らなかった私は、当然ヴェルディを応援するものだと思っていたのですが、茨城県民、強いては茨城県職員であった父は当然のように「鹿島を応援する」と言い放ち、その日から鹿島サポーターになりました。

この地域密着を提唱しているJリーグの趣向に乗っかってしまったわけですが、きっとこういうファンがJリーグ開幕を成功させたのだと思っています。